文化財説明板マップ 寒川町

文化財説明板マップ

寒川町の文化財説明板マップです。
文化財説明板が設置してある場所を示しています。
右上の「Full Screen」をクリックし、拡大してご覧ください。

[ご注意]
一部、無くなった、あるいは、移動された説明板があります。

梶原景時
1.梶原景時館跡
寒川町一之宮1540
梶原景時(?~1200年)が治承4年(1180) 石橋山の合戦で源頼朝を救い、治承5年(1181) 頼朝に家臣として認知された時、寒川・一之宮の地を領し、この地に館を建てたと伝えられています。

倉見神社←2.倉見神社・夫婦欅
寒川町倉見46
倉見神社 本殿:町指定重要文化財 第4号。寛保元年(1741)建。四方に十二支の彫刻が施されています。
夫婦欅:町指定重要文化財 第5号。根元から約2mのところで二股に分かれているのでこの名がつきました。推定樹齢は約150年。町内唯一の天然記念物です。

塔の塚←3.塔の塚
寒川町岡田1864
町指定重要文化財第10号。昔は塚の頂に塔が建っていると南湖の海の魚がその光で逃げてしまうため、魚売りが塔のそばを通るたびに塔を倒したので塔がなくなったなどという伝説ものこっています。

←4.大(応)神塚
寒川町岡田2380
町指定重要文化財第19号。全長約50m、後円部高さ5mほどの前方後円墳です。前方部が低く伸びる前期形式の前方後円墳であることや、石室のない粘土槨か木棺直葬であったと思われることから、5世紀代のものと考えられています。

中原街道←5.中原街道
寒川町宮山991 平塚市郊外の中原から江戸に通じる道。この街道は、中原にすばらしいお酢を造る家があり、将軍徳川家康が放鷹の際そのお酢を気に入られ将軍家の使用料として荷駄馬で運ばせたところからお酢街道の名があります。

不動堂←6.大山街道、一之宮不動堂
寒川町一之宮3012
不動堂:本尊 木造不動坐像及び制叱(多)迦(せいたか)、矜羯羅(こんがら)不動明王。
大山街道:不動堂の前の道が大山街道です。左へ進むと、間もなく相模川です。

越の山←7.越の山横穴墓群
寒川町岡田3049
小出川に面する関東ローム層が浸食されて出来た斜面につくられた墓群です。1キロメートルに及ぶ斜面一帯が墓域である可能性があります。この墓は膨張アーチ型横穴とよばれ、7世紀ごろのものと推定されます。

←8.興全寺宝篋印塔
寒川町宮山1784
町指定重要文化財第11号
右 貞治7年(1368)建立、
左 貞治6年(1367)建立。
関東形式。町域で確認されている宝筐印塔のうち、この、宮山・興全寺境内のものが最も古い(南北朝時代)。

信玄芝原←9.信玄芝原(しんげんしばら)
寒川町宮山1666
永禄12年(1569)武田信玄が小田原攻めの際、寒川神社に立ち寄り、兵を休めた所と伝えられています。(説明板は朽ちています)

雉子稲荷10.念宗寺 雉子稲荷
寒川町小動765
かながわのむかしばなし50選
念宗寺の和尚さんと雉子と狐のお話し

高木清方←11.高木清方の墓
寒川町倉見1787
天正19年(1591)、倉見を治めた旗本、高木清方の墓所。

景観寺←12.景観寺十一面観世音菩薩立像
寒川町一之宮1-18-15
町指定重要文化財 第1号。像高 105.3㎝。室町時代の作と推定され、ヒイラギ材の素木で本格的な造像手法をとった仏像です。尊顔は面幅の狭い瓜実型で、上品かつ秀麗。尊体もすっきりと表現され、仏衣表現・衣文線とも巧緻で精彩があり都風の特色が濃厚な尊像です。

菅谷神社←13.菅谷神社天保神輿
寒川町岡田4-20-39
町指定重要文化財第7号。伝承では、天保9年(1838)、国府祭の帰路、馬入で馬入の若衆と喧嘩となり、川に投げ込まれ、茅ヶ崎の南湖の浜で孫七にひろわれた寒川神社の神輿が菅谷神社に譲渡されたものといわれています。

←14.十三塚
寒川町岡田2824
江戸時代には並び塚といわれていたものが仏教上の数の意味から十三塚とされるようになったものと思われます。この付近の豪族の墳墓説や戦国時代両上杉の合戦の戦死者の墳墓説等諸説あります。

←15.下大曲神社庚申塔
寒川町大曲2-8-18
県指定重要文化財。承応2年(1653)。像高90㎝。4腎の青面金剛像と2匹の猿、雌雄の鶏が刻まれた庚申塔です。この型は寒川、茅ヶ崎、藤沢、平塚で確認されたものが全国でも古いものと言われ、そのうちの最古のものです。

現在は、寒川神社内 方徳資料館で展示されています。

←16.伝梶原七士の墓
寒川町8-1436
正治2年(1200)正月、梶原景時一族郎党が、上洛の途中、清水で討死してしまったので、一之宮の留守居役であった家族、家臣らがその者達を弔ったという説や、景時父子が討死してから、しばらく景時の奥方を守って信州に隠れていた家臣七人が、世情が変わったのを見て鎌倉に梶原氏の復権、所領安堵を願い出たが許されず、七士はその場で自害し、それを祭ったものとも言われています。

←17.車地蔵堂
寒川町一之宮2-16-24西
この地蔵堂は、小田原城主大森実朝の孫、菊地泰次が慶長2年(1597)3月に建立し、安産子育地蔵を祭ったと伝えられています。車に乗った地蔵をお祈りする人には自分の子や孫の時代に幸せが車に乗ってやってくるという「三界ハ輪廻ノ如シ」という仏教の教えに従ったものです。(説明板は朽ちています)

←18.安楽寺 大日如来坐像
寒川町岡田2380
町指定重要文化財第12号。大塚山安楽寺は養老年間(717~723年)の建立と伝えられる町内最古の格式の高い寺院で、十数の末寺がありました。明治37年に末寺の等覚寺(本尊地蔵)、観護寺(本尊不動)、明治40年に宝塔院(本尊地蔵)を合併しました。

19.寒川の史跡と文化財
寒川町岡田209-11

←20.弁財天堂
寒川町一之宮8-5-31
町指定重要文化財第15号。日野屋(入沢家)の裏鬼門に弁財天を祭るためのお堂。一間流造 軒唐破風附 こけら葺。

←21.陣屋跡
寒川町倉見2008-8
ここは、江戸時代初期{天正19年(1591)}に倉見村を治めた旗本高木清方の屋敷跡周辺と伝えられています。その後同家は江戸に移り住み、この地は畑となりました。

22.越の山横穴墓群→#7

←23.小谷十一面観音像
寒川町小谷1-13-10
案内板は小谷地域集会所入口手前右手にあります。

十一面観音像高32.3㎝。左手に水瓶を持ち、右手を膝の上で掌を上にした座像。桃山時代の作と推定されます。中国明朝の影響がみられます。

←24.行安寺阿弥陀三尊像
寒川町倉見1873
町指定重要文化財 第16号。中央の阿弥陀如来像坐像は天正10年(1582)、湛慶(たんけい)の作と伝えられています。像高 42.3cm。
案内板は山門右手にあります。

←25.西善院地蔵菩薩立像
寒川町宮山3925
町指定重要文化財 第13号。旧薬王寺本尊。像高80.5㎝。江戸時代作。

←26.高安善塚・榎戸
寒川町中瀬2-104
高安善塚:伝説「美女塚物語」が残っています。

榎戸:旧大山街道沿いに一軒の茶屋があり、酒あるいは雑貨を売る旅人の休み所でした。 昔から大きな榎の木があるところから榎戸と呼ばれ、現在も何代目かの榎が昔の面影を残しています。

←27.一之宮八幡屋台神賑行事
寒川町一之宮1-21-10
町指定重要文化財 第3号。八幡大神の例祭の宵宮(前日の夜)に行われる神賑行事で、一之宮の東・西・北の3町の屋台が各町内から出発し、太鼓、笛、鉦等による囃子にのって、八幡宮をめざして巡行し、宮入します。

倉見観音堂千手観音←28.観音堂・千手観音立像
寒川町倉見996
町指定重要文化財 第18号。室町時代の作と考えられ、町内では他に例をみない九面二十四臂(ぴ)像です。小像(像高 20.5cm)にもかかわらず、作風は丁寧で、腰から膝にかけて動きも感じられます。

29.十三塚→#14

←30.念宗寺 阿弥陀如来坐像
寒川町小動765
町指定重要文化財第17号。室町時代作。上品下生印の来迎相。

←31.倉見水神宮
寒川町倉見447
水神宮は水難禍を除くために、川、泉などの水辺に祭られます。この水神宮は、相模砂利㈱が昭和4年(1929)に建立したものです。

←32.中洲稲荷
寒川町宮山3313
かつては相模川の中洲にあったものを、この地にうつしてきたため「中洲稲荷」といわれています。
左手の庚申塔{天保7年(1836)}には「一之宮」と記されています。「一之宮」は寒川町内の地名として、唯一道標に記されています。

東守神社跡←33.東守神社跡
新編相模国風土記稿に「東守権現社 村の鎮守なり、祭神詳ならず、例祭九月九日、観護寺持」とあります。観護寺は廃寺となり現在はありません。明治42年に菅谷神社に合祀されました。

←34.大曲地蔵尊
寒川町大曲2-6-28北
・舟型光背地蔵尊 寛文3年(1663)
・地蔵尊 明和8年(1771)
・光明真言供養塔 文化7年(1810)

←35.生往寺・宝篋印塔
寒川町田端754
浄土宗増上寺末、本尊阿弥陀、開山文賀元和中(1615~1624)卒。開基は菊地下総守泰次(藤原姓大森一族)です。

36.応神塚→#4
37.伝梶原七士の墓→#16

←38.岡田遺跡
寒川町岡田7-2861-95
縄文時代中期(いまから4,000~5,000年前)を中心とした巨大集落が確認されました。その大きさは、日本でも最大級の縄文時代の集落といっても過言ではありません。500軒以上の竪穴住居址が確認され、全体では1,000~1,500軒にのぼると推定されます。

←39.倉見才戸遺跡
寒川町倉見2025
弥生時代中期の大型住居や環濠(村のまわりにめぐらせた溝)、弥生時代後期の竪穴住居や環濠などが確認されました。特に、弥生時代中期の大型住居は相模川沿岸ではめずらしく、出土した土器や石器からは東海地方の影響がみられるものもありました。出土品の一部は文化財学習センターで見ることができます。

←40.宮山遺跡
寒川町宮山1292
弥生時代後期の環濠集落及び、方形周溝墓(方形に溝をめぐらせた墓)群が発見されています。

←41.大蔵東原遺跡
寒川町大蔵800
町内最古の住居址である縄文時代前期の住居址(6,000年ほど前)、町内最古の土器である縄文時代早期の稲荷台式土器(1万年ほど前)が発見されています。さらに、町内最古の遺跡であり、旧石器時代の礫群(2万数千年ほど前)が発見されています。

←42.花川用水
寒川町一之宮8-830
花川用水は、江戸時代から現代まで、基幹用水路として使われています。

←43.倉見駅
寒川町倉見3823-1
1926(大正15)年4月1日開業。相模線開業当時の駅舎を今でも使っています。

←44.湘波皆川翁の碑
寒川町宮山934
この石碑は、当初根岸緑地(宮山36-4)に設置されていましたが、区画整理事業にともない、根岸緑地がなくなったため、平成17年(2005)8月に、七堂伽藍跡の礎石と一緒に、寒川小学校に移設されました。

ページのトップへ戻る
inserted by FC2 system